幻界人 ・5話

 ふ、と現実に引き戻された感じだった。クシュカが呼吸を整える様を、そのままだったらしばらく見ていただろう。
 そんなことを考えている間に、見れば、審判を待つような、クシュカの表情。ドゥスがそんな彼女を庇うように寄り添い立った。二人の視線が俺に向く。これで逆らえる訳も無かった。
「……家に入って貰うとお嬢様に良くない評判がたつから、丘にでも行こうか。空の色が変わる前に帰るんですよ、お嬢様」
 クシュカが再度頷いた。口元が薄くほころんで、瞳は僅かに潤んでいる。表情を常に抑えている観のある彼女の、おそらく、とびきりに近い笑顔だ。
 途端に胸が小さく高鳴り、慌てて視線を逸らすと、ドゥスの微笑にぶつかった。何か含んだような不思議な表情。真っ直ぐこちらを見る瞳に、高鳴った胸に生まれた甘さが、僅かに消え去った気がした。

                ◆        ◆
「旦那様、朝食をお持ちしました」
 タリアの声が現実を知らせる目覚めの鐘の音になる。夢を見ていたのだと気付くのに時間は掛からなかった。
「私は……何か寝言を言っていなかったかね」
「いえ、何も」
 身を起こすと、寝台脇の小卓に、タリアが朝食を並べ終えていた。
「何か夢をご覧になられましたか」
「昔の夢だよ。クシュカが屋敷を抜け出して、私の元に遊びに来た。私は丘で彼女に冒険の話をした」
「懐かしゅうございますね………」
 ゆったりと述べると、同時にタリアは悲しげな表情を浮かべ、向こうを向いた。その背中に彼女の苦しみを感じた。
 優しく美しい思い出は、あの事件を知る者にとって、時に劇薬だ。悲しさを際立たせる。
 私は黙った。タリアに、辛い記憶を蘇らせさせたかった訳ではなかった。
 タリアは、忠実な召し使いらしく、すぐに平素の態度を取り戻した。
「ジョスラン坊ちゃまが、あの頃の事を御存知になれば、あのように悩まれはしませんでしょうと、思うのですよ」
「いや、…………私とクシュカの結婚は、ジョスランにとっては、あの事件の産物でしかないのだろう。そんな父親を愛せというのは酷なものだよ」
「坊ちゃまは、それだけではなく………」
 まだ何か言いたげなタリアを私は目で制した。
「解っている。しかし、それは、神のみぞ知られることだ。ジョスランが悩むことは何もない。あれは、確かにクシュカの息子だ。つまりセントール家の正しい血を引くただ一人の者だ。それだけ解っていれば良いのではないのか」
「旦那様」
 タリアは小さく首を振った。
「そんな事をお言いになっても、坊ちゃまに意味はございません。ジョスラン様は、旦那様を愛しておられます。愛しておられるからこそ……」
「タリア、タリア」
 私の、僅かに哀願の混じった声に、タリアは口を噤んだ。
「失礼致しました。下がらせて頂きます」
「ああ」
 味の感じられないスープを口に運ぶ事に、私は意識を集中させた。


 まだ小さい頃のジョスランは、私にとても懐き、私に抱え上げられるのを喜び、私の冒険譚に瞳を輝かして聞き入り、私に剣を習いたがった。道理を覚え、付近の貴族の子弟と付き合う歳になると、私を見上げる瞳には尊敬が加わった。『父様』が『父上』に変わり、母親のおらぬ淋しさを隠そうとするのが逆に憐れを感じさせるようになった、あの頃もまだ、互いの愛情に満ち溢れ、信頼という絆が私たち親子の間に強く結ばれていた。
 ジョスランが十才の頃だ。息子は、椅子に腰掛け手紙を読んでいた私の前に回り込んで来て、じっと私の顔を見つめた。
「父上は、冒険者だったのですよね」
「そうだ」
「……母上を心から愛しておられましたか?」
「ああ」
 力強く答えた私に安心したのか、その時、ジョスランは長い溜息を洩らした。
「どうした?」



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