幻界人
・8話
◆ ◆
俺はだんだんと最初の激昂状態から落ち付きを取り戻していった。
俺達はまず、クシュカをさらった犯人の、馬の痕跡を追った。しかし途中の草原で、完全に足取りを見失ってしまった。草原の外周を数回調査したにも関わらず、同一と思われる馬の蹄鉄跡や排泄物は発見出来なかった。連中の逃走準備は万全だったのだろう。計画的なものかと思われた。
そこで諦めて男爵家の屋敷に戻ったのは、深刻な表情と共に述べられたセーラの意見の為だ。
「手口から見て、まず間違い無く、アノスで暴れてやがった誘拐団の残党だ。連中はアノスで国の兵士団に狩られ、盗賊ギルドの制裁を受け、もうちりぢりに消えた筈だったけど。オランに渡ってきやがった連中が居るようだって噂を街で仕入れてきたところさ。まさか、あのクシュカお嬢さんが狙われるなんて……」
「それで、他には!?」
「落ち着きな、バート」
片手で額を押さえ、セーラは呟く。
「おそらく、そう遠くないどこかに本拠地が有る筈だよ。怪しい場所があったら、そこを捜すのも手だ。
おそらく数日で脅迫状が来るだろう。金品と引き換えに娘は帰す、と−−−−けど、それが来てからじゃ、正直、遅い」
「どうしてなの」
ドゥスが不審そうな顔をして聞いた。
「奴等は、人質を滅多に生きては帰さない。御丁寧に、金を奪った後、切り刻んだ死体を送ってきやがった事もあるって話だからね……」
ゆっくりとドゥスは驚きの表情を形作った。一瞬では信じられなかったのだろう。人間にしか、悪逆性とか暴戻さとかは存在しないと時々思う。エルフは時々冷淡だ。魔物は酷薄で暴戻だ。けれど、人間だけが、暖かく広い心の裏返しとして、残酷さを楽しむ事の出来る心の部屋を持って生まれてくる。じっとりと湿った祠だ。
「金を取り逃げか」
ギィも、声に静かな怒りを現している。
「信じられないくらい残虐な奴等さ。だからアノスじゃすぐ捕まった」
セーラと交錯した視線は、申し訳ないという表情と共に、そっと外された。クシュカの運命を思い、心の中にぞっとする冷たい風が吹いた。
俺達は屋敷に戻った。クシュカの身代金を要求する手紙はまだ届いていなかった。男爵の目の下に、くっきりと黒いくまが出来ていた。馬の足跡を見失った事とクシュカをさらった犯人の予想についての報告に、男爵は強い瞬きをした。その表情が弱々しく緩む。紡がれた一言は、何か聞いた者の腹の下の方へ落ち抜けて行って、そこで引っ掛かるような、そんな悲しさだった。小さい声だった。
「…………判った」
そのまま成す術無く時間が過ぎていったら、俺はどんなひどい状態に陥っていたか解りやしない。だが俺達が屋敷に戻って半刻も経たぬ頃、タリアが髪を振り乱しながら駆け込んできた。
クシュカと共にさらわれた召し使いの娘が逃げ出して、助けを求めてきたのだという。セーラが慌てて駆け出して行った。俺達が遅れてその娘の元に着いた時には、セーラはすっかり情報を整理して、結論を導き出していた。燃えるような瞳と不敵な表情は、セーラらしさの大きな一つだ。自信を持った声で言う。
「判ったよ、みんな。おそらく、あの遺跡だ。連中、あたし達が怪物を追い払った、あの古代遺跡に陣取りやがったに違いないよ……!」
「男爵があんな事を言うとは思わなかった」
セーラがランタンの炎を最小限に調節している横で、俺は床に座り込んだ。俺の独白だったにも関わらず、ドゥスが近寄ってくると俺の目を覗いてきて言った。
「男爵の気持ちは解るでしょう。今はあんな事を考えなくてもいいのよ」
少し離れた所から、ギィとセーラがそっとこちらを伺っているのが気配で感じられた。二人にとっても男爵の言った話で俺がどうするのか、気になるらしい。
連中の潜む一画へ侵入する前の、最後の休息だ。周囲はごつごつとした岩が剥き出しになっている。遺跡の本来の通路は基本的に石畳が敷き詰められ整然とした様子だが、ここは内部の清掃など雑事をこなす奴隷の通った道で、広いが余り歩き易くない。しかしこの道は本道に連結した出入口部分を巧妙に隠され、この道の存在に気付いていないらしい犯人達の所に忍び寄るのには都合が良かった。
「俺は……魔法の剣を貰う、かな」
「あたしは、前に見たあの魔法の靴がいいな」
不意に、呟くようにギィとセーラが言った。俺がその言葉に反応を見せるより早く、ドゥスの落ち着いた声。
「私はそれと同じ程度の銀貨か宝石ね」
俺は近くのドゥスの顔を見た。ランタンの乏しい明かりに照され、人形の様に整った小さな顔が濃い陰影を得て神秘的ですらある。固定された表情で俺を真っ直ぐ見返してくる。俺の内心を探る視線だと、思った。
男爵は、俺達に、娘を助け出した暁には欲しいだけの報酬を与えると約束した。
俺はそんなものは欲しくなかった。金欲しさ抜きでやった仕事は今までに無かったが、クシュカを助け出す事は、仕事だとは考えられなかった。うまく言えないが、クシュカが屋敷に居らぬ今の状態はおかしい。彼女には不似合い過ぎる。未だ現実感が湧かないくらいだ。うまく言えないが、クシュカを屋敷に無事取り戻すのは当たり前で、そして、クシュカがいつもの様に屋敷をそっと抜け出して、俺の話を聞きに来て欲しいと思う。
そうじゃないなんて事が、現実に、何故有るのか。
春まで続く筈だった。折れそうに細い美しいクシュカを、そっと目で愛でながら、古い冒険の話をする事は。突然俺の前に現れた美しい花を、いつでも思い出せるよう心に刻みつける時間が、春まであった筈なのだ。
今までに出会ったことの無い、美しい心の形をした娘だった。男として、欲望を抱かない訳ではない。けれど生きる世界も身分も違う。もし出来るのなら、口付け一つの思い出も持って、次の旅に出ることが出来ればと、物語じみた事を夢見ていた。それ以上は望まない。あの娘は、冒険の旅など出来ないのだから。
俺にとって男爵の言葉は、理解はし得るが、瞬間受け入れられぬものだった。
どうして冷静に言えるのだろう。苦しげな声だったにせよ。