幻界人
・9話
「バート、生きて助け出してくれたなら、娘は君にやる」
歓喜を感じなかったのは、クシュカと結ばれることを夢見ていなかった為もあるが、男爵の声に余りに強い苦悩があったからだ。それも俺に向けられたのではない。
意味をすっかり理解した時、俺の胸に訳も解らず燃えていた熱さが、途端に引いた。男爵が何を考えているか気が付いたからだ。
男爵は娘の純潔が汚された事を覚悟している。そうなると、例え生きて戻っても、幸福な結婚は望めない。少なくとも男爵家に相応しい相手とは。
「娘は、君に惹かれておった。君にクシュカの夫となり、男爵家を継いでほしい」
小さく口笛を吹いたギィを窘めたのはセーラだけだった。俺は内心の狼狽えを必死で隠しながら、無意識にドゥスを見た。ドゥスは透明というには揺らめきの混じった瞳を俺に向けていた。
ドゥスも動揺しているらしい事に驚き、俺は初めて見る種類のドゥスの瞳の動揺の色に見蕩れていた。
脳裏にクシュカの顔が多数閃いたが、どんな表情かは見えなかった。
岩の壁に背を付けて、剣を抱き込むように座り込んでいる俺を、遠巻きにするように仲間達も座り込み、それぞれ思い思いの姿勢で休息を取っている。自分たちで作製した地図があったとはいえ、敵に存在を気どられることなくこの広い遺跡を探索するのは神経のいる仕事だった。焦りが、しばしば俺を急がせ過ぎ、無重を期し冷静に行動しているセーラやドゥスにしばしば叱責を投げさせた。無理がたたって体の節々が痛い。だがそれは目にも留らぬほど小さな事だった。
男爵への明確な返答は避けた。何も聞き返してはこなかったから、男爵も返事を求めていたのでは無かったのだろう。あれは半ば哀願だったに違いない。男爵位にもある貴族が、冒険者風情の俺に、頭を下げて………。
俺の心はざわめく。一瞬たりと明確な像を結ばない。何を決断できそうもない。
「……これがあたし達の最後の仕事になるかもしれないね」
少し戯けた調子で、セーラが言った。俺は答えなかった。
セーラの独白めいた言葉は続く。
「良い仲間達だったと思ってるよ。もしこれが最後の仕事になったとしたら、あたしは、ギィと旅を続けようと思う。良いよね、ギィ………」
暗闇の向こうで、彼の頷いた様子がした。途端にセーラの周囲を歓喜の空気が包むのが感じられた気がした。俺の頭を、三人で旅をしていた頃の楽しい思い出が過ぎった。だが何も胸には起こらない。
思い出話にはまだ早い気がした。黙っている俺に憚ってか、セーラはそれきり口を噤んだ。
俺は目を閉じて、様々な昔の事を思い出した。
昔ドゥスに一度だけ好きと告げた事がある。
この村に落ち着く、少し前の話だ。
旅という流れる生活の中、近いところで生きてきて、これからもずっと近いところで生きていけると信じていたから、安心して告白した。
「そうね。私もあなたの事は好きだけど、でも、違うのよ」
じっと俺を見つめて、考えてから答えた台詞がそれだった。
くすくす笑いも向けてくれないのが、悲しかった。
言葉の意味はよく解らなかったが、拒絶だとだけ俺は受け取り、数日間の俺からの一方的なよそよそしさとぎこちなさを経て、二人の仲はやがてそれまでどうりに戻った。抱きしめたい欲求に駆られていた訳ではなかったから、俺達の間に変な気まずさは残らなかった。俺達は、その後も、良い仲間同士だった。
けれど、昨日男爵の告げた言葉と、それに驚愕した俺、そのどちらに対してなのか、動揺を見せたドゥス。あの瞳の揺らめきは、愛だとか恋だとか好きとか嫌いとか、そういう世界に属するものではなかったろうか。
俺はエルフの恋情というものを知らない。人間には長過ぎる時を生き、老いを知らぬ彼等がどうやって愛を育むのかを知らない。ましてドゥスは故郷の村を旅立ち、人間の世界を人に紛れて旅するという生き方を選んだ、およそ特殊な存在だ。俺にはドゥスが解らない。擦れ違いを感じる事も多い。
けれど。けれど、今なら、ドゥスは俺に応えてくれるような気がする。俺の望んだ答えを返す気がする。ドゥスの心の水面に波紋を起こした石は、確かに、俺が投げたのだ。クシュカが俺に惹かれていたのが事実ならば、ドゥスの心が今俺を見ているのも、事実だと思いたい。
………俺はクシュカの事を考えないようにしているのだろうか。クシュカの無事を声を嗄らして大声で祈り続けている自分が確かに内側に居る。そしてクシュカの姿を、心に浮かばぬよう浮かばぬよう必死で追い散らしている俺も居る。怖い。現実のクシュカが、俺の知っているクシュカでなくなってしまうのが怖い。このままクシュカの姿を二度と見なければ、俺の中に居るクシュカは変わらないままだとすら思う。
この遺跡の奥にクシュカが居る事は間違いがなかった。他の場所に人質を移す暇も余裕も、更に慎重さも連中には無かった筈だから。セーラの言う事にいつも間違いはなかった。
クシュカとドゥスの、どちらかを選ばなければならないのだと俺は気付き始めていた。
こんな心のままで。