幻界人 ・13話

                ◆        ◆
 扉を開けた。後から考えると、先程にも増して無防備で無鉄砲な行動だが、その時の俺にそんな事を考える余裕は無かった。
「クシュカ」
 扉が開き切らない内から、俺は彼女の名を呼んでいた。口をついて出た。
 扉の内に、傷に盛り上がった肉のせいで僅かに引き攣り痛む身を投げ込み、喉の奥から声を出した。
「クシュカ……ッ!!」
 他に誰も居ない部屋の隅に、クシュカは体を投げ出すように倒れていた。
 素裸だったが、輪になった袖口だけが、破り取られた縫い目を見せ、左腕に絡まっていた。
 血液と泥が体に絡んで汚していた。
 一瞬、駆け寄るのを躊躇した。記憶の内のクシュカから遠過ぎる姿ーーーーー
 異臭に気付いた。異臭というには、良く知った臭いではある。男の精液の臭い。むわっと迫ってくるような、独特の臭気。
「ク…シュカ!」
 足が勝手に動いた。気付くと、駆け寄っていた。淫臭はますます強まる。
 擦れた叫び声が耳に届いた。外には届きそうも無い、小さな小さな叫びだ。
 構わず俺はクシュカの体を抱きしめていた。汚されきった、細い、小さな体を。
 生きている。清らかなまでの温かみ。
「クシュカ、クシュカ……!」
 名前を呼ぶしかなかった。胸の内に強く抱き入れ、時々離して、壊れてしまっている表情を覗き込む。身じろぎほどの弱さでクシュカはもがいていたが、何もなされないのだと知ると、やがて体を動かすのを止めた。
 クシュカの瞳は、輝きの無さに白目ばかり目について、俺は胸を掻きむしられる気持ちだった。
 やがて、ドゥスが部屋に入ってきた。俺の傍まで歩み寄ると、しゃがんで、そっと俺の腕の内のクシュカにその手を伸ばし、指で顔の汚れを拭いた。そのまま、ドゥスは何事か呟き始める。淋しげにも聞こえる調子は俺の時とは違っていたが、同じ『癒し』の魔法らしい。
 ドゥスの呟きが終わると、クシュカの肌に生気が取り戻されたようだった。
 そのまま俺はクシュカを抱いていた。いつしか、クシュカの指が、俺の服の胸を縋る様に掴んでいた。
 二度と離さないと思った。
 ギィとセーラもいつの間にか傍に立っていて、なのに何も声を掛けてこなかった。まるで俺とお前達で別れを惜しんでいるみたいじゃないか、と心の片隅で考えていた。

                ◆        ◆
 ジョスランの剣技はやがて乱れを見せ始め、本来の型を崩していたが、時々の手強さをみせた。その理由に思い当り、私はこの対戦を始めてから何度目かの喜びに見舞われた。私がジョスランに剣を教えていた頃の、私の我流の影響がそこかしこにあった。
 切り込めず、ジョスランが退がる。
「くそっ……」
 息子の声には何の虚飾も無く、私は満足の笑みを浮かべた。だが、そろそろ、疲労で動きが鈍り始めている。完全に疲労にとらわれたら、体の若い息子には勝てない。
 向こうは向こうで、早く勝負を決めたいのは同じらしい。足退りして間合いを取りながら、互いに剣を握る手に力を入れ直し、全身に気迫を漲らせる。気同士がぶつかる。臨界点へと向け高まってゆく。
 攻撃に出たのはほぼ同時だった。上から叩きつけてくるジョスラン。その剣に叩きつけるように、下から切りつける私。
 鈍い、金鎚で叩いたような音の意味を、瞬間、私以外の誰も理解出来無かったに違いない。
 私の剣は、ジョスランの剣と噛み合った部分から、ぽっきりと折れてしまったのだ。見物人の間から溜息に似た驚きが漏れる。
 だが、その時私は会心の笑みを浮かべていた。
 折れた剣の先が、ジョスランの喉に当てられていた。動けない首の上には、信じられないというジョスランの表情(かお)。
 剣を折った事は、そしてそのまま戦う破目になった事は、長い冒険者時代に幾度か有った。
「私の勝ちかね?」
 息を切らせながら私が聞く。
「ああ、………父さん」
 素直な言葉に、体を骨に沿い熱いものが走る。
 見物客から上がった歓声と、叫びながら駆けつけてきたタリアの金切り声に、私たち親子は少々疲れに緩んだ顔を、見合せた。
 自然な表情で接し合うのは、とても気持ちの良い事だった。

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