『夢幻泡影』

 ── 久遠 ── 

 久遠は、厨房に足を向けた。
 夕食の準備はまだ始まっておらず、人の影は少ないが、奥の方で何か油のはぜる音がする。
「ムッシュウ、どうされたので……」
 横から掛けられた外国語訛のある少年の声は、たしなめる料理長の視線に、途中で途切れてしまう。そっと席を外す師に従って、少年も、場を辞す。
 音と匂いに惹かれるように、久遠の足は厨房の隅に進む。
 布も仕立ても高級なスーツが、まず違和感を持って目に入る。その上にエプロンを羽織った広い背中が、コンロに載せたフライパンを揺らしていた。面白げに見守っていた料理人達が退室したのに気付かず、集中しているらしい。卵の焼ける匂いには僅かな乳臭さが混じる。それは久遠の遠い記憶を刺激した。

『チーズオムレツ。俺の、死んだ母さんの味なんだ。食べてみて、久遠君、夕姫……世羅ちゃんの分もあるよ』

 兄弟のように育った彼の笑顔の記憶を、何度も掘り返さずにいられなくなったのは、いつからだったろうか。
 無意識に、久遠は足音を殺していた。立ち止まりかけた足が、そのまま、無言の背中へと近付いていく。悪戯心を起こしたのだ。
 不意にその背中が振り返り、久遠はびくりと体を震わせた。
「久遠様?」
 冷たい印象を与えかねないシャープな眼鏡の下から、瞳が真っ直ぐに見ている。どこか優しげな色がそこにある。いつから気付いていたのか、と憮然としながら、久遠は近くにあった椅子を引き、大人しく腰掛けた。
 窓から明るく差し込む日差しは、小鳥達の鳴き声は、ここが高層ビルの頂に設けられたあまりにも好事な屋敷だということを隠してしまうかのようだ。巨大コングロマリットの頂点に立つ二人の青年は、どこかアンバランスさを隠せないその景色の中で、しばしの沈黙を保った。
 皿に、野菜とオムレツを盛りつけ終わってから、静は振り向いた。エプロンを脱ぎながら聞く。
「今、部屋に……それとも、ここで?」
 本来、食材の下拵えをするための机の前に座っている久遠を見て、静は微かに微笑んだ。
 人の目が無いところでだけの、静のどこか曖昧な言葉遣い、それは、二人の世界を仕切ってしまった壁を束の間、誤魔化してくれる。
「器用だな」
 答えずに、久遠はそんな事を口にする。
「昔はお前も、世羅ちゃんや夕姫に色々と作っていたりしたじゃないか。何なら、何か作ってみるか?」
「……貸せ」
 ついと久遠が手を伸ばす。意外な言葉に、静が慌てた様子を見せる。
「久遠、まだ熱……」
「っ!」
 制止は間に合わなかった。静の手からフライパンを取ろうとして、久遠の指先がまだ充分に熱い鉄のどこかに触れてしまったらしい。
「久遠」
 ひったくるように久遠の腕を掴んでフライパンから離させる。
 熱さに顔をしかめている久遠の表情を見て取るやいなや、静はその手を取って、指を口に含んだ。小さな火膨れを、唾液で湿す。
 僅かな痛みの後に訪れる、心地良い冷たさ。そして温もり。久遠の良く知ったもの……戯れで得るのに飽いた、あの肉体の奥の熱さとは全く違う種類の、体温。
 カラカラと、コンロの上でフライパンが揺れ動いて音をたて、やがて止まった。

「もう、いい……」
 ついと、顔を背けるようにして、久遠が手を引いた。そのまま床に視線を落とす。
「念の為、けいこに手当して貰うと良い」
 静は、落ち着いた声でそう勧めた。だが久遠は答えようとはしない。
「けしかけるようなことを言ってすまない。だが、自重してくれ、お前は……」
 久遠が俯いていた頭を戻した。ひっそりとした呟きが静の耳に届く。
「……俺達は、いつからこんな風になってしまったんだろうな」
「久遠……?」





 ── 絢夏 ── 

「ほんと、犬みたいな人よね」
 久遠のシャツのボタンを留めてやりながら、絢夏がくすくすと笑う。
 整った指がひらひらと動くのを見ていた久遠は、彼女の言う「犬」が、先程、久遠の服を持ってきた静を指しているのだと、僅かな間の後で、気付いた。
「呼んだらすぐ来るし。久遠さんに逆らわないし。静さんって……」
 笑いかける笑みの艶冶なこと、この上ない。その魅力に引き出されたのか、先程までの絢夏との痴態が、久遠の頭をかすめる。もう一度戯れるか。だが、そんな気まぐれは、肉体のだるさが打ち消してしまう。
 病状は、確実に進行している。集中した治療を全く行っていないのだから当然だ。もっとも、行える治療でもないが。
「静に興味があるのか?」
「ええ、少し」
 悪びれずに答えつつ、絢夏は最後のボタンを留め終えた。
「ちょっと遊んでみたいかしら」
「そうか」
 久遠はそれきり黙り込む。絢夏も無言のまま、メイド服を着込み終えた。
「では失礼致します、旦那様」
 絢夏は完璧な一礼をして、部屋を出た。

 久遠、静、夕姫の三人は、兄弟のように育った孤児なのだという。彼らこそが、伝説のような経済界の女傑・土屋和歌子の育てた、彼女の後継者達だ。
 三人の関係を、掴み切れたようで掴み切れていないと、絢夏は最初から今までずっと感じているのだった。
 和歌子の存在を知っている分、理解は少しは早かった。この屋敷に来て、新しく解ったことも多々ある。
 夕姫が、夫の久遠と、少なくとも数年間、肉体交渉を持っていないこと。
 静が、久遠に絶対的に服従するよう、和歌子により強く仕込まれていること。
 久遠が、和歌子の性的な奴隷であっただろうこと。
 ぺろりと舌を出して、絢夏は唇を湿した。久遠の体は、実に楽しめる。まぁ、私が気付いていることを、久遠に知らせぬよう気を遣っているのが、つまらないが。
 あの藤堂静という秘書も、和歌子に、「仕込まれて」いるのは状況からして間違いない。
 あの無表情な男は、意外と容易に陥落しそうな雰囲気もあって、そそる。
 多分、和歌子という女性には、自分と共通した嗜好があったのだろうと思う。
 夕姫には性的にすれていない空気がある。彼女は和歌子の玩具にならなかったのかも知れない、と絢夏は観察していた。
 絢夏も、夕姫よりはメイドの穂澄の方が、嗜虐をそそって興がのる。

 私だったらどうやって楽しむかしら。楽しんだかしら。
 女帝と呼ばれた過去の人物に思いを馳せる。和歌子の視点で想像を馳せつつ、自分の屋敷の部屋とも、一人暮らし中のマンションとも較べものにならない狭いメイド部屋のベッドに、目を閉じて倒れ込む。一人で寝る分にはこのベッドでも特に窮屈ではない。
 少なくとも、二人とも整った容姿の少年だったことは間違いがないわね。
 初物を頂く時は楽しめたでしょうね。仕込んでいくのも実に興奮するわ。
 久遠さんの場合は、世羅ちゃんを人質に出来るっていうシチュエーションがたまらない。
 無理強いして、女物の洋服を着せるのも良い。紅を引いてあげたら嫌がるでしょうね……
 二人いっぺんも良い。
 そうそう、あの二人、やっぱり、一度は絡ませてみたのかしら? 和歌子さん……
 ついと、絢夏は手を胸に寄せた。たわわな乳房を、メイド服の上から掴む。想像だけで、軽く興奮していた。
 自分で慰めようかどうか一瞬だけ考えた後、ベッドから降り立つ。一人でするより、穂澄かミシェルで遊んでこよう、と。

 廊下で静とすれ違った。極限までに、絢夏に無関心な無表情のまま、会釈してくる。絢夏はにっこり笑って礼をして見せた。
 そのスーツの背中を見ながら、弄んでみたい……と思う。
 彼に対して久遠が抱いている執着に、絢夏は気付いていた。どうにかして、上手に三人で楽しめないものかしら?
 今朝方の情事の後、久遠と二人でシャワーを浴びた。彼がインターホンを鳴らしたら静がすぐに現れて、表情を表に出すことなく全裸の久遠の体の水滴を拭い、服を着せて身繕いさせた。バスローブを緩く纏っただけでしどけなくベッドに寝そべる絢夏には、一度も視線を向けることが無かった。
 あの後、犬みたいね、と揶揄しながら、絢夏は飼い主と犬の関係を羨ましく思っていたのだ。飼い主が、犬に用事をさせている間、自分に関心を向けなかったから。
 嫉妬にも似た感覚で、今朝の情景を思い出し、機会があり次第、静を弄ぶことを心に決める。うまく久遠さんの機嫌を損ねないようにやらないといけない、と、父との賭けを思い出しながら呟いた。
「……あ」
 絢夏は、自分が奇妙に久遠に惹かれる理由に気付いた気がした。
 彼は父親と似ているのかもしれない。ファザー・コンプレックスという単語に陳腐さを覚えて少し溜め息する。
 狡猾なところに、頭の良いところ、人を支配する力、冷酷さ、決断力。それから、どこか内に矛盾を秘めているところ……絢夏が、男の性を持つ者にしか感じたことのない、不可思議さ。
 ……絢夏の父親は、良く、妻にばれるような浮気をする。育ちの良い世間知らずな妻に気付れないよう、泣かせないよう、隠れて浮気できる程度のことは簡単に出来る筈なのに。昔は、その理由が解らず、父に苛立ちを覚えたものだ。
 そうね……久遠さんとお父様って同じなんだわ。喉の奥で笑う。
 本当に大事な相手の気を、他人との情事を見せつけることで、惹こうとするあたりが。 親の愛情を確かめるために悪戯をする子ども。そんな手段は、決して互いを近づける訳ではないということを、久遠は解っているのか解っていないのか、と考えた。
 どちらにしろ彼らのような人種は、それを止められないのだろう。それ以外の術を知らない為に。心のどこかで絢夏は「男」に腹を立てた。
 それから、そんな思考を捨てて、穂澄を捜しに出た。





 ── 穂澄 ── 

 穂澄は、主人に逆らうだけ無駄であることを、とうに学習していた。友人と毎日笑いさざめいていた学校生活のなんと遠いことか。この屋敷の中に法も人権もない。主人だけが、ただ一つの絶対的な力であるからだ。

 闇が空気に交じったような部屋で、穂澄の君主である土屋久遠は、彼女の一挙一動を気怠げに見つめている。
 ソファに深く腰掛けた主人の前に、酒の瓶と杯を用意する。どうしてもたててしまう音が、主人とその傍らに立つ秘書の会話の邪魔にならないように、穂澄は震えながら瓶の封を切り、酒を用意していく。
 何の感情も表面に出さず、静は書類の束を手に、久遠の椅子の脇に立っている。穂澄には良く解らぬ、企業運営に関する報告が、低い声で流れるように彼の口から続けられる。緊張している彼女には、背景音楽にも聞こえる。
 聞き流す素振りで片手に顎を支え、穂澄の仕草を眺めながら、それでも久遠は静の話に時々口を差し挟んだ。一度も、瞳を秘書に向けることなく。そんな彼の決定を静はただ受け入れ、次の事項に移っていく。
 この時の止められたかの様な屋敷の中で、そうした経営の現実を持ち込まれることが無粋だと久遠が思っているのを、彼のメイドはなんとなく理解していた。
 酒を注ぎ終わり、ほっとして出ていこうとする穂澄を、彼女の主人は呼び止めた。
「爪を切れ」
そう、久遠は命令した。

 パチン、パチンと間隔を置いて響く爪切りの音は、静の業務報告を邪魔することはない。穂澄は久遠の両の手の爪を切り終えた。ほっと一息を心の中に吐いて、足の爪にかかる。跪き、靴と靴下を脱がせる。腿のエプロンの上に、蒸しタオルで清めた久遠の足を載せて、また爪切りをそっと当てていく。
 頭上から向けられている主人の視線を出来るだけ意識しないようにして、穂澄はまた爪切りの音を鳴らし始めた。
「……今日の報告は、以上です」
 総帥である久遠以外には行えない決済の処理を終え、静は書類を揃えなおした。一礼すると、そっと扉へと向かう。息をついて、久遠は椅子に腰掛け直す。
 その時だった。
「あっ!」
 悲鳴めいた声は穂澄のもの。
 久遠の白い爪先に、朱色の珠が浮いていた。
 力なんて入れていなかったのに、血が出るほど傷が付くなんて。穂澄は今までの自分の失敗とそれに対する折檻を思い出し、反射的に目の端に涙を浮かべた。
 顔を上げれば、久遠が先程よりも冷たい視線でじっと見下ろしている。
 扉に向かっていた静も、足を止め、この粗相をしたメイドに、どこか捉えどころのない視線を投げていた。目が合う。冷え切ったその視線にあるのは同情か、それとも、もっと他のものだろうか。もっとも穂澄にそれを考えている余裕はなかった。
「も、申し訳有りません!」
 泣き声混じりに頭を下げ、穂澄は蒸しタオルを掴んだ。
 だが、それで血を拭き取る前に、久遠の足が穂澄から離れるようにして動く。
 蹴られるのかと思い、穂澄は縮こまりながら後じさる。床に尻をつく。
 脅えるメイドに一瞥を投げると、久遠は面白く無さそうに小さく鼻を鳴らした。
「血が出たな」
「申し訳有りません……」
 久遠は退屈を覚えた。ただ稚拙に謝るだけの娘の泣き声は、いつもなら嗜虐をそそるのに、今日はそんな気になれない。
「続けろ」
「はい」
 突然の成り行きに足を止めて見ていた静が、止めていた歩を再開する。その途端、部屋に時間が流れ出したように穂澄は思った。
「もう爪切りを使うな」
 罰は受けずに済むらしいと解って、穂澄の表情には露骨な安堵が出る。次に、疑問が浮かんだ。
「あの……」
 爪切り無しに、どうやって続けろと言うのか。
「続けろと言っている」
 侮蔑するような久遠の言葉を理解できず、おろおろと視線を彷徨わせる。
「静」
 久遠が声を出した。ドアの向こうに消えかけていた背中が、ぴたりと動きを止める。
「手本を見せてやれ」
「はい」
 穂澄は振り返って、主人の、忠実過ぎる秘書の顔を見た。そこには何の表情も浮かんでいなかった。
 穂澄が身を避けて空けた場所に、静は歩き寄った。フルオーダー・スーツの片膝を、躊躇いなく床につけ、そこに跪く。そして彼は、久遠の足を手に取った。
 穂澄は不意に理解した。恐怖に似ているがそれとは違う別の感情に、また体が硬直する。
 ゆっくりと静の顔が、久遠の爪先へと近付いていく。
「い……いや……」
 小さすぎる音も、この静かな部屋の中では隅々まで届いてしまう。穂澄のその否定めいた声も、主従の両方の耳に届いたことだろう。
 乾きかけた血の珠に、静の乾いた唇が触れ、そして口の中へと消えた。
 足下に大の男を、自分に連なるナンバー2を跪かせて奉仕させる久遠の姿は、己の権力を高らかに誇っている。
 穂澄には悪夢のようだった。
 久遠はその状態で、先程と変わらず脅えた穂澄を見つめている。怠惰そうだが、先程より確実に生気ある瞳で、震える穂澄の姿を楽しんでいる。その口元が微笑の歪みを象った。
 美しい地獄の悪魔のようだ、と穂澄は思った。
 それから、久遠は穂澄から視線を外した。足下の男をじっと見つめる。その表情から微笑の影は消えている。ただじっと、視線を落とす。そして、彼女の主人は、二度と穂澄を見なかった。
 カリリ、と、湿ったような音が静かな室内に響いた。歯が爪を噛み切る音だ。
 穂澄はそれ以上見ていることが出来なかった。吸い付けられるように主人達から外せずにいた視線を、剥ぐように外す。何かが狂っている。わけのわからない得体無さに脅えながら、部屋を飛びだした。後でそれを理由に折檻されるかも知れない。けれど、それでも穂澄は、恐ろしかったのだ。
 堪えていた泣き声を漏らしながら部屋を出た穂澄に、部屋の中の二人が視線を向ける事はなかった。

 再度、部屋を支配した沈黙の中で、やがて静は、久遠の足の爪の始末を全て終えた。
「……ご苦労だった」
 その一言に、静は軽く眼鏡を指で直し、スーツの襟を正しながら立ち上がる。書類を腕に一礼して、部屋を出た。
 扉の閉まる音と共に、久遠は黄昏の部屋に一人残された。





 ── けいこ ── 

 久遠の部屋を出、私室に戻る途中、けいこは男女の話し声を耳にした。
 不思議に思って歩をゆるめる。
(……あ。秘書さんと、奥様の声だわ……)
 声の漏れ聞こえてくる扉の手前で足を止める。
 けいこの今度の患者は酷く頑固で、我が儘で、治る努力というものをしようともしない。大金持ちで、権力者で、けれど、どこかその冷徹さは淋しさを感じさせる。そんな人だ。
「……そう、その時、久遠兄さんが……」
「そうだな、まさか久遠が……」
 奥様の名前は、夕姫さんと言ったっけ。話し相手は、秘書さん。確か静さんだわ。
 続けて、笑い声が聞こえてきた。このままでは立ち聞きになる、そう気付いて、けいこは慌てて立ち去った。

 二日前にインターホンが叩くような音で鳴った。
 あの秘書の人が、久遠が部屋で倒れている、とけいこを呼んだのだ。
 廊下を駆け抜けて飛び込んだ部屋の床に、久遠は体を折って伏せていた。
 脈を取り、顔を覗き込むけいこの脇で秘書はじっとその様子を見ていた。そして医師の手配をしたことを、邪魔にならないようそっと伝えてくれた。
「頭は打ってないようですね。動かしても大丈夫。気を失ってますね。体が冷えますから、ベッドに運ばないと」
 彼女が言うが速いか、秘書は久遠の体をこれ以上はない慎重さと素早さで抱え上げ、ベッドまで運んだ。
 それから、ずっと、傍らについていた。彼が連絡して、奥様も来た。二人は心配げに、ずっと久遠の意識のない顔を見つめていたけれど、やがて下の階からの呼び出しで、出て行かざるを得なくなった。強ばった顔で出ていく彼らに、医者が容態が安定していることを告げると、初めて、ほっとした表情を見せた。
 二人の様子に、どこかけいこは違和感を覚えた。
 引っかかりの原因が、この間久遠と交わした会話のせいだと、ほどなく思い出す。奥様と秘書さんの仲を嫉妬するような、邪推するような、そんな口調だった。あの時気付かなかったけれど、多分、あれは、そういう意味だったのだ。
 でも、二人はあの時、心から……多分、己と同じかそれ以上に、久遠のことを大事に思い、心配していた。
 特にあの秘書さんは、もっと無機質で、全ての感情を削ぎ落としたような冷たい眼で、人を見るのだと思っていた。今まで会ったとき、常にそうだったから。
 状況を説明して、すぐ駆けつけるように頼んでいた声の影にあった、動揺を表す響きを、けいこは後になって思い出した。けいこの手当を脇に立って見ていた彼の、血の気を無くした表情とそれが合致して、なんだか妙に得心した。

 酷く愛に飢えているような久遠さん。メイドの穂澄ちゃんたちに、酷いことをしていることも知っている。
 けれど、つまらない意地悪を言うときの、隠れた感情のあるようなあの笑みが、けいこには、妙に子どものように見えてならない。
 薬のケースを渡したら、目の前でぽいと放り出してしまった事があった。行く度に捨ててしまうのだ。だから、その度に、笑って渡す。終いには諦めたのか、大人しく置いておくようになった。あの人には、一生懸命に伝えようとしない限り、気持ちは伝わらない。
 子どもなのだ。
 ……あの三人がどういう関係なのかは知らない。旦那様のことを『久遠兄さん』と呼ぶ、奥様。同年代の相手に対して、ひたすら影となり付き従っている秘書さん。
 あなた達の気持ちはきっと、久遠さんには伝わっていません。
 不意に、痛みに近い悲しみが胸を襲う。
 あの二人の笑い声は、久遠がもし、もし……ええ、そんな事には絶対させないけど!……死んだとしたら、二度と聞けないだろうものだ。
 屈託のない愛情を、お願いだから、気付いてあげて下さい、久遠さん。あなたのことを愛している人達が、ここに、いるんです。

 日が過ぎて、けいこは、夕姫と話す機会が増えた。向かい合って話してみると、まるで、少女のような可愛らしいところのある人だった。歳も近く、久遠が支配する巨大企業の運営ブレーンだとは、言われない限り、想像も付かない。
 自分の夫のことを、はにかみと淋しげな表情で話す人を、けいこはもどかしく思った。彼女が久遠を心から愛していると解るにつけ、そのもどかしさは強まる。どうして伝えてあげられないの?
 けいこの愛した人は、かつて遠い国で、失われたから。
 気持ちを抱えたままの帰り道、廊下で秘書とすれ違った。
 この人の名前も知らない頃、久遠さんの部屋を出ないと宣言した私を、久遠さんの命令で肩に担いで外に放り出してくれた事があったっけ。そう、あれは、久遠さんにピルケースを渡したときだわ。苦笑混じりに思い出す。
 けいこに気付かないような素振りで通り過ぎる彼を呼び止めるのには、少し勇気が要った。
 けれど呼び止めた後は、てらいもなく言えた。親しくなりかけている夕姫には言うことが出来なかったせいかも知れない。
「久遠さんを、たくさんたくさん、愛してあげて下さい。あの人には、そうしないと、伝えてあげられないんです。……子どもみたいな人だから」
 驚いたような目で彼はけいこを見つめ、それから、静は小さく会釈した。
 そのまま横を通り過ぎて行く。
 だが、俯いた瞬間の彼の目が、彼女に対してではなくとも優しくて、けいこは、とても幸福な気持ちになった。





 ── 静 ── 

 息苦しさに静は目を覚ます。
 薄く開いた目に映ったのは、闇の中、星に似たきらめき。
 美しい弓形の紅。
 吸い込まれそうな肌の白。
 一筋の黒髪が流れて、静の首筋を撫でた。

 見たことのない女が、横になった静の上に、乗っている。
 驚きに目を見開く間に、女は、静の顔を両の手で包み上げるように抱く。
 女の軽く羽織った赤い長襦袢が、動きに合わせ清かな衣擦れの音をたてる。黒いエナメルと白いブラウス、糸に通した真珠の連なりが女の体を取り巻いている。首筋を隠すのは大きなリボンタイ。
 端正すぎる美しい顔に鎮座する、青い瞳に、静の顔が写っている。
 女が静に口付ける。
 小さな唇が、静のそれを割り広げ、濡れた舌が侵入する。それは冷たく、熱く、静の口腔を這い回る。
 完全に覚醒していない体で、静は女を払いのけようとする。
「静」
 静の頭に声が響く。男とも女ともつかぬ声が。男であり、女でしかない、玲瓏な声が。同時に醜悪な声が。
 堅く尖った舌先のうごめきが、静に蛇を思い起こさせる。
 あやかしを、静はもう一度力を入れて、押しのける。だが女はびくともしない。
 口付けの蹂躙は続いている。間近で、互いの瞳が交錯する。
 静は躊躇いなく、女を殴りつけようとする。
 その腕が動かなくなる。
 体の全てが動かなくなる。

 静が体の異変に焦りを覚える中、女は静の体へ愛撫を進めてゆく。
「ねぇ、静」
 唇が開いたと思えば閉じている、閉じていると思えば開いている。その口から出た言葉なのかどうかも解らないまま、不思議な声は静の頭に響き続ける。劣情を呼ぶような、背筋を嘗め上げるような、性夢の結晶じみた声。
 誰だ、と静は声にならぬ声で問う。
「俺は毒」
 答えの声が届く。
「阿片」
 首筋を撫で上げる舌の動きに、動かない筈の体が一瞬ぴくりと反応する。
 不思議な名前が、静をどこかで納得させる。
 あらがえぬ麻薬の名だ。
 人を滅ぼす魔薬の名だ。

 やめろ、と静は高ぶり始めている自分を押さえつけながら阿片に言う。
 唇も舌も動かなかったのに、彼女にはそれが聞こえるらしい。
「どうして」
 不思議そうに。あざけるように。嬉しそうに。
 弱いところを指先で弄られて、静の目がかすむ。
 そして次の瞬間には、女はその特徴を全て残したままに、性を転じていた。
 長い黒髪に赤い唇、青い瞳の男。
 これも阿片なのか。
 そうだ、と声でない声が静に届く。
 これは夢なのか、と、何度目かの疑問が静の頭を過ぎる。
 それを見透かしているとしか思えない艶冶な微笑が、男の阿片の口元に浮かぶ。
 彼の手が静の太股を這い回る。
 おぞけに身が震え、怒りが静の体を支配していく。
 心のもう一方の端に恐れが生まれる。もう、二度と静を蹂躙することの無い筈の女の姿が脳裏をかすめる。
 混乱した頭が、阿片を、和歌子の亡霊だと一瞬結論付け、次にその馬鹿な考えを破り捨てた。反射的に黒水仙の香りを嗅いだような気がした自分を、嫌悪した。

 長くしなやかな指先が、整った長い爪が、やがて静の中心に辿り着く。
「久遠が何を望んでいるのか気付いているのでしょう」
 阿片の出した名に、静は混乱を覚える。
 阿片の手の動きは、静に不本意な性感を与え、腰に熱さがせり上がり、彼の精神を辱める。
「静、貴方は、邪魔だ」
 その声に重なり、
「静、貴方が、必要だ」

 繰り返される合唱。
 どこかで聞いたことのあるような甘えの混じった要求が、朱の差し始めた静の顔の奥でこだまする。
 阿片という名のサキュバスの、執拗で的確な愛撫が、静の限界を近くする。
 息が荒くなる。体はどこも動かせないのに、胸の上下は激しくなっていく。
 敏感なそこをさすられて、体がしとどに汗ばんでゆく。
 耐えきれずに、静は目を閉じた。
 限界を超し、脳裏に閃光が走る。その瞬間、体の上の重みが消えた。

 気が付けば、ベッドに横たわっている自分。全身に吹き出した汗の感触がまとわりつく。
 半身を起こし、呼吸が整いきっていないことに気付いた。
 夢だったのか。
 見れば、下着も夜具も汚れていない。
 だが、あの舌の、指の、甘く淫猥で汚らしい感触が、まだ体に残るかのようで、思わず知らず手で表情を隠す。
 静は久方ぶりに暗闇に不安を感じつつ、周囲を見回した。誰も居ない、いつもの居室だった。

 何か飲もうと、ベッドから降りる。
 酒の瓶に一瞥を投げたが、水差しを選ぶ。コップに水を注ぎながら、今し方の夢の意味を考える。
 阿片。奇妙な名だ。
 久遠の命令で手に入れてきたマリファナのことを思い出す。決して病気の体に良くはないそれを、静は、諾々と手渡した。命令だったから。
 阿片の口調を思い出す。記憶が砂のようにこぼれ落ちていくが、響きの欠片が脳裏に甦る。
 温くも冷たくもない水を一気に呷り、コップを机に音をたてて、置く。
 コップの近くに置かれた大きな箱に目が行った。
 一昨日、久遠に突然手渡された、プラモデルだった。
 少年の頃、欲しくても、諦めるしかなかったもの。今となっては、思い出を刺激するだけの、複雑な形状のプラスチックス。時間が許せば、久遠がくれたものだから組み立ててはみようと思いながら、放置していた……。
 印刷の原色に、毒々しい阿片の赤い唇を思い出す。

 書類の積まれた机の前に歩いてゆき、椅子を引く。勢い良くそこに腰を落とす。机に肘を突き、組み合わせた指に、額を押しつけるようにして、俯く。
 電気を点けず、闇を見つめながら、静はじっと考え続けた。
 気に留まらなかった空調の音が、こうして息をひそめるようにしていると、耳に届いてくる。
 ふと横を見ると、窓の外から薄明かりが差してきている。
 もう朝かと思って見れば、雲の影から月が姿を出したのだった。
 刹那見とれ、視線を机に戻す途中に、視界の端にコニャックの瓶が映る。これも久遠が不意に手渡したもの。美味い、と静が言ったのを覚えていて、わざわざ取り寄せたらしい。
 留めた目線をはがすのが何故か忍びなく、じっと見つめる。
 それは、余りにも稚拙な愛情表現。
 先程の飛行機の模型も同じ。
 わかって、いるのだ。
「…………」
 言葉を見付けられないまま、ベッドに戻ろうとしたが、何故か無意識に、手は、模型の箱を取っていた。
「久遠……」
 同い年の、友。兄弟であり、戦友で、だが絆など何もない、相手。幼なじみで、主従の主。
 久遠は、決して治ることの無いだろう病に、今も、命の残り火を弱められ続けている。得られなかった肉親の愛情を今になって取り戻す代わりに、この屋敷を作った久遠。退廃と享楽に生きる振りをしている久遠。飢えた子どものような久遠。
 苦悩が静に渋面を作らせる。
 その箱を離せ、ともう一人の自分が囁いている。
 悲しげな、栗色の髪の女性の顔が浮かぶ。本来、久遠を癒やすべきだった女性。心からの無償の愛を彼へと抱いている妻。だが、いつ行き違ってしまったのか、彼女の癒やしは、久遠には間に合いそうもない。
 静が手を差し伸べることで産まれる、彼女の苦しみを思い、気付かない振りをしてきたこと……

 やがて、月明かりの中、静はぽつりと呟いた。
「すまん、夕姫……」
 古びたデザインの箱に目を落とした静の顔を、月光が薄く照らしている。
 自分の決断の重さを、静は、噛みしめる。

『ひとりより…三人の方が耐えられるはずだよ……』

 そう言ったのは自分。
 そう言って久遠の手を引いたのは自分。
 だった筈なのに。
 それを壊すのも、自分。




 ── 終章 ── 

「静、すぐに来てくれ」
 インターホン越しの久遠の声に応えながら、静は、自分が越えようとしている一線を考えた。

「御用件をどうぞ」
 奇怪なオブジェの乱立する部屋の中央で、久遠はソファに腰掛けたまま、現れた静の姿を暫く見つめていた。
「静…」
「はい」
「俺が……お前とずっと一緒に居たいと思うのは変か……?」
 向こうから切り出してくれたか、と静は思う。
「答えろ……静…!」
「知って…いたよ…」
 自分の感情の判別が吐かないまま、愛しさだけを確かにして、静は答える。

 うろたえる様子を可愛いと、愛しいと、思って見ていたと、告げる。

 久遠の残された短い時を、共に過ごすために、生き急ごうと静は決めたのだ。
 罪悪感は後で感じればいい。
 ソファで腰掛けている久遠に、そっと近付いていく。
 動かないのか、動けないのか、久遠は近付いてくる静をただ見つめている。
 真っ直ぐに見上げてくる瞳は、かつての少年の頃よりも素直で、頼りない。
 静はそっと膝を曲げた。片膝を付いて、久遠との目の高さを、いつもと同じ高さにする。
 手のひらで顔の輪郭を包んでやる。
 久遠が視線を僅かに外す。
 愛しい者の温もりを感じながら、静は笑った。
「……静……」
「照れたり、恥ずかしがったりしている時間が惜しい」
 その言葉に答えられずにいる久遠の口を、静は唇で塞いだ。